幕末四大人斬りの一人。
過激な尊皇攘夷思想を持ち、敵味方から恐れられた。
通称「人斬り彦斎」
外見は小柄で痩せ型、声も小さく、内気な性格で、一見女性を思わせるような容姿だった。
竹刀での試合はてんで駄目だった彦斎だが、ひとたび真剣勝負になると負けることはなかった。
開国論者の佐久間象山を白昼堂々と騎馬ごと斬殺したことで有名になった。
彦斎が「斬る」といえば必ず人を斬ったという。
明治に入り、周りの同志達が開国派に傾いて行く中でも、最後まで自分の思想を曲げる事はしなかった。
明治4年12月4日、政府を相手に尚も攘夷を唱える危険人物と見なされ、38歳で斬首に処される。
個人的には、先に散っていった仲間達を思い、思想を曲げることが出来なかった義理の堅い人だと思っている。
漫画「るろうに剣心」の剣心のモデルとしても有名。
古代ローマ時代。
五賢帝と呼ばれる賢帝が治めていた良き時代があった。
ネルウァ帝(在位96〜98)
トラヤヌス帝(在位98〜117)
ハドリアヌス帝(在位117〜138)
アントニヌス=ピウス帝(在位138〜161)
マルクス=アウレリウス帝(在位161〜180)
彼らが気をつけたこと。それは帝の位を自分の子孫に継がすことはしなかったことだ。
有能な人物に皇位を継がす。このことがローマ帝国の最も繁栄した時期を生み出した。
しかし、アウレリウス帝の後は、アウレリウス帝の息子が継いだ。
コンモドゥス帝(在位180〜192)
彼はローマ帝国史上最悪の皇帝のひとりとして言及される。
このコンモドゥス帝の登場で五賢帝の時代が終わりを告げた。
国政を省みず、皇帝自ら円形闘技場で剣闘士試合に参加していたという。
ギリシア神話の英雄ヘラクレスに扮し、1万2千人の剣闘士を殺害した。
またある都市では、市民の一人がコンモドゥスを敵意あるまなざしで見たという理由で、市民を虐殺させた。
その彼は結局暗殺され、30歳でこの世を去る。
え〜っと、なんでこんなネタをやったかと言うと。
金曜ロードショウで「グラディエーター」がやってたんで、ネタにした次第です。
これで、「グラディエーター」が一層おもしろくなる!はず・・・。
見てね。
分かりません。ごめんなさい。
好きな食べ物を訊かれて、どうして?って訊かれるようなもんです。
面白いんです。
何が面白いかはそれによるし、NP完全問題みたいなもんです。この問題は。
それだけで、サガフロンティア2やらFFTをやった男です。
三国志やら孔子傳もまあそんな影響を受けてですねぇ〜。
日本史も別に嫌いじゃあありません。実は。
まあ、なんていうか、はい。オチ無しです。
今から2500年ほど前、1人の男が生まれ70有余年を生き、そして死んだ。
それはキリスト生誕の約500年前、ブッタの存在とほぼ同時期である。
その男は後世、孔子と呼ばれた―――
今から約2500年前、中国が歴史上最も混乱を極めていた春秋時代末期。
かつての統一王朝周は既に衰え、数十カ国に分割されていた。
その中の一つ、現在の山東省南部あたりに魯という国があった。
史記によれば、紀元前551年の夏、その魯国で孔子は生まれた。
赤ん坊は頭の頂がへこんでいた為、丘と名付けられたとされている。
姓は孔、名は丘。孔丘。後に孔子と呼ばれる人の誕生であった。
父親は叔梁紇。
その梁紇が60歳ぐらいのときに若い女との間にもうけた子で、正式な結婚をして生まれた子ではなかったらしい。
そして、孔子の母親に関しては性は顔、名は征在。それ以外は何も伝わっていない。
孔子が3歳の時、父親が死んだ。
孔子は15歳の頃に学問を志したと言われている。
15歳の時に母親を亡くし、孤児になった孔子が生きていくために何かを必要としたからだ。
15歳の頃、士の身分を持たない孔子は存外に扱われたそうだ。
士とは下層階級の出身ながら何かの能力が認められ身分を与えられた平民のことであり、
孔子にはもちろんそのような能力も家柄もなかった。
1人で生きるために孔子はあらゆる仕事をされたとされている。
家畜の番人、子守、葬儀の手伝いなど。
その中で人知れず文字の読み書きを学んだ孔子は19歳の頃には役所の倉庫役人を任され、帳簿つけなどをしていたそうだ。
27歳の頃、古代の寛政や令政についての知識の持つ人として世間が孔子を認めるようになっていった。
当時学ぶことが出来るのは貴族だけであった。
禮、即ち政治制度や社会規範、そしてそれを生み出すための道徳。
樂、即ち祭礼のための音楽。
射、即ち弓。
御、即ち馬車の御し方。
書、文字の読み書きを学ぶこと。
数、古来の囲碁や将棋のようなもののことで、また数学のこと。
全ては身分のある貴族達のための教育施設であり、制度であった。
孔子30歳。
有教無類。
教え有るとも類無し。即ち、「いかなる者であっても学ぶことは出来ることが出来るはずだ」という言葉を残している。
少しずつ孔子の周りに人が集まってきて、またそのことで孔子の名が広まっていき、孔子は私塾を開くこととなる。
もちろん、その私塾では貴族のためのものではなくどんなものの身分のものが学ぶことが出来る塾であった。
孔子の私塾は学ぶことの機会が少ない人のものであったが、その名が知れ渡るにつれ弟子入りする貴族達も多く、孔子は決してそのことを拒まなかったそうだ。
教えの前に誰もが平等である。それを初めて実行した人だと言えるだろう。
学ぶことは生きるための理想をうることである、もしその理想を実現するとしたら時として権勢の支えが必要とする場合がある。
と、孔子は残している。
権勢に溺れたわけではないが、その出発点から現実の中に身をおいた教育者であったと推測される。
孔子の弟子や、仕官の話はまた。次の機会に。
<三国志について>
現代、日本で広く知られている三国志。
これは史実ではない。というと語弊があるかもしれない。が、
これは高校世界史では理系でも出てくるんですが、現在読まれているのは
中国の元末・明初の劇作家 羅貫中の「三国志演義」という作品なのです。
つまり、演義、民間に広まった俗話をまとめ、面白くしたものなんです。
というわけで、漢末期から晋が平定するまでの三国時代と評される時代の史実
ではなく、その時代に書かれた年表でもなく、つまりは約1200年後の稀代の天才、
羅貫中によって描かれた物語なのです。というわけで、面白いに決まっている!!
また、三国志は中国四大奇書にも数え上げられる作品なのです(他、「水滸伝」、「西遊記」、「金瓶梅」)。羅貫中はちなみに「水滸伝」の作者でもあります。
というわけで、広く日本でも読まれている三国志はその物語を要約したり、
よりお話として演出されたものなのです。
ちなみに、正史(歴史書として編纂されたもの)は当時、蜀ー晋に仕えた歴史家・陳寿によって編纂されています。
と、前置きが長くなってしまったので、そろそろ内容の簡易説明を、このわたくしめがさせていただきます。しばし、お付き合いを。
<内容>
長らく続いた漢(後漢)の末期。国は荒れに荒れていました。
腐敗政治を行う宦官(皇帝の子供時の世話役。)。宦官と武官との権力争い(例、党錮の禁)。
蔓延する疫病。
世の中は混沌となりました。
時に184年、事件は起こります。医者が民間人を巻き込んで起こした大反乱。
黄巾の乱。
「蒼天已に死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子にあり。天下は大吉ならん。」
後漢王朝の時代は終わり今こそ我ら民衆が立ち上がる時!をスローガンに
民衆は立ち上がったのでした。
しかし、実はこれは野党の群れにすぎませんでした。各地で略奪を繰り返すだけの反乱軍。
皮肉にも国内で争っていた国事態にこれを収集するだけの力がありませんでした。
そして、国は各地に住まう豪族や志ある義賊を集います。
三国志の物語はここから始まります。
その義賊を集う看板を見て、三国の蜀の君主・劉備、関羽、張飛は義兄弟の契りを交わし、義賊として立ち上がるのです。
時を同じくして、「治世の能臣、乱世の奸雄」三国の魏の君主・曹操。
三国の呉の君主・孫権の父親、孫堅。などなどが立ち上がり、この大反乱を収めます。
しかし、このことで国が弱体化し、さらに時の皇帝・霊帝が亡くなった為に、幼い皇帝を
擁立しようと各豪族が鬩ぎ合いを起こします。
結局は魏の王・曹操が皇帝を擁立することになるのですが・・・。
曹操は自国の民の為に国を統治し、皇帝から権力を奪うようなこともせず、
その手腕で中国北部を統一します。
それに流れ、劉備は中国南西部を、孫権は中国南東部をそれぞれ平定します。
そして、時は220年。三国の中の曹操が病死します。
そして、その子、曹丕が漢の皇帝からその権威を奪う(形上は譲ってもらう)形で
魏の皇帝を名乗ります。
それに伴って、劉備は蜀の皇帝を、孫権は呉の皇帝を名乗ります。
こうして漢の時代は終わるのでした。
そして、時は過ぎ、280年。魏の武将、司馬懿の息子達が魏をのっとって出来た晋国が蜀→呉と滅ぼし、全国を統一することでお話は終わります。
中国古来の戦国時代の一つ、三国時代。
孔子のような思想家(諸子百家)が生まれた春秋戦国時代(BC770〜BC221)も然り、そこは大きな魅力があります。
それは、混沌とする世の中の為に立ち上がる、志のある人間のドラマです。
人がこれらの物語にひきつけられるのはひとえにそれだと個人的に思っています。
僕はこの話を幼少時代に読んで、最後、晋が統一したって話を聞いた時はすごい
感動したのを覚えています。
というわけで、ちょっと歴史旅、三国志編はいかがだったでしょう?
詳しい話(名場面、人間ドラマ)はまたいつか機会があればね。
長く拙い文章にお付き合いありがとうございました。
わーわー言うとります。お時間です。さようなら。
フランスの聖女。
フランス北東部のドンレミ村の農家の末娘として生まれるが、神の声のを聞いたと兵を率いて勝利する。シャルル7世は王位を継承。しかしその後イギリスにうりわたされ、14回にのぼる異端審問ののちに「男装をしたこと」、「教会を経由せず直接神に応答しうると信じたこと」で有罪となり死刑を宣告されたが、ジャンヌがあやまちを認めたためにいったんは終身刑に減刑。牢獄に収容されたあと、ジャンヌがふたたび男装したため再度審問に付され死刑宣告。
ルーアン、ヴュー=マルシェ広場で1431年5月30日火刑。享年19歳。
25年後の1456年、ローマ・カトリック教会はあらためて審理をおこない、正式に無罪を宣告。500年近く後の1920年、ローマ教皇ベネディクトゥス15世は聖人の称号を与え、5月30日を祝日とすることに決定した。
今日の金曜ロードショウに影響されたわけです。こういうのもいいかも。って思って、第1回目はこの人の紹介にしてみました。