今から2500年ほど前、1人の男が生まれ70有余年を生き、そして死んだ。
それはキリスト生誕の約500年前、ブッタの存在とほぼ同時期である。
その男は後世、孔子と呼ばれた―――
今から約2500年前、中国が歴史上最も混乱を極めていた春秋時代末期。
かつての統一王朝周は既に衰え、数十カ国に分割されていた。
その中の一つ、現在の山東省南部あたりに魯という国があった。
史記によれば、紀元前551年の夏、その魯国で孔子は生まれた。
赤ん坊は頭の頂がへこんでいた為、丘と名付けられたとされている。
姓は孔、名は丘。孔丘。後に孔子と呼ばれる人の誕生であった。
父親は叔梁紇。
その梁紇が60歳ぐらいのときに若い女との間にもうけた子で、正式な結婚をして生まれた子ではなかったらしい。
そして、孔子の母親に関しては性は顔、名は征在。それ以外は何も伝わっていない。
孔子が3歳の時、父親が死んだ。
孔子は15歳の頃に学問を志したと言われている。
15歳の時に母親を亡くし、孤児になった孔子が生きていくために何かを必要としたからだ。
15歳の頃、士の身分を持たない孔子は存外に扱われたそうだ。
士とは下層階級の出身ながら何かの能力が認められ身分を与えられた平民のことであり、
孔子にはもちろんそのような能力も家柄もなかった。
1人で生きるために孔子はあらゆる仕事をされたとされている。
家畜の番人、子守、葬儀の手伝いなど。
その中で人知れず文字の読み書きを学んだ孔子は19歳の頃には役所の倉庫役人を任され、帳簿つけなどをしていたそうだ。
27歳の頃、古代の寛政や令政についての知識の持つ人として世間が孔子を認めるようになっていった。
当時学ぶことが出来るのは貴族だけであった。
禮、即ち政治制度や社会規範、そしてそれを生み出すための道徳。
樂、即ち祭礼のための音楽。
射、即ち弓。
御、即ち馬車の御し方。
書、文字の読み書きを学ぶこと。
数、古来の囲碁や将棋のようなもののことで、また数学のこと。
全ては身分のある貴族達のための教育施設であり、制度であった。
孔子30歳。
有教無類。
教え有るとも類無し。即ち、「いかなる者であっても学ぶことは出来ることが出来るはずだ」という言葉を残している。
少しずつ孔子の周りに人が集まってきて、またそのことで孔子の名が広まっていき、孔子は私塾を開くこととなる。
もちろん、その私塾では貴族のためのものではなくどんなものの身分のものが学ぶことが出来る塾であった。
孔子の私塾は学ぶことの機会が少ない人のものであったが、その名が知れ渡るにつれ弟子入りする貴族達も多く、孔子は決してそのことを拒まなかったそうだ。
教えの前に誰もが平等である。それを初めて実行した人だと言えるだろう。
学ぶことは生きるための理想をうることである、もしその理想を実現するとしたら時として権勢の支えが必要とする場合がある。
と、孔子は残している。
権勢に溺れたわけではないが、その出発点から現実の中に身をおいた教育者であったと推測される。
孔子の弟子や、仕官の話はまた。次の機会に。
ううう、誰もつっこんでくれない・・・。
やっぱ、長文は駄目なのか!??
どなどなどーなーどーなー
(つっこみ待ち)
孔子をのーせーてー
Posted by: hotstaff at 2005年02月07日 21:02