自由ってなんでしょうか?
思えば、この疑問を持って以来、葛藤と迷いが生まれたと思う。
小学生の頃は楽だった。
塾行って、いい成績を取れば褒められ、それを目標にしていればよかった。
でも、それは”自由”では無い。そう誰もが思っていたと思う。
中学、高校、大学。
自由に選べと言われ、そう進んできた。
でも、本当に自由だったんだろうか?
そして今、自由なんだろうか?
ただひかれたレールの上から脱線する勇気が無く、その上を歩いてきたにすぎないんじゃないのか?
自分に問う。
この国は自由をモットーとするのが好きなんだろう。
新教育はそういうのをスローガンとして掲げていたはずだ。
それなのに、分かっていたはずなのに、今更学力低下を唱えている。
何を持って自由で、何を持ってよしとするのかが見えてこない。
環境によって備わる価値判断があると思う。
個人的にはその判断を育てるのが教育だと思ってるんだけど、
結局、その判断基準に従って、僕らは生きる。
その判断基準を育てる環境は僕らに選ぶことは出来ない。
その時点でもう、僕らは自由じゃない。
でも、そんなことはどうしようもないし、今更議論するまでもない。
じゃあ、何を持って”自由”とする?
そもそも自由に生きる必要はあるんだろうか??
自由であるんだ!そんな強迫観念に襲われているだけなんだろうか?
自立すれば自由なんだろうか?
人それぞれ意見があると思います。
出来れば、皆さんの”自由”を聞かせていただけるとありがたいです。
じゆう ―いう 2 【自由】
(名・形動)[文]ナリ
(1)〔freedom; liberty〕他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意志や本性に従っている・こと(さま)。自らを統御する自律性、内なる必然から行為する自発性などがその内容で、これに関して当の主体の能力・権利・責任などが問題となる。
(ア)哲学的な意味では、自らを自律的に統御し、内なる必然から自発的に行為すること。外的自然からの自由、内的自然(理性や意志以外の要因)からの自由、他人による強制からの自由に分かれる。意志の自由とほぼ同義。
(イ)社会学的な意味では、社会集団が個人の自律的な判断・決定能力を発展させる構造的条件を備えていること。基本的人権のほか価値・規範体系の整備なども含む。
「―な社会の実現」
(ウ)政治的・歴史的には、時代によって異なる内容をもつ。古代ギリシャでは奴隷などと区別されたポリス市民固有の属性、すなわちすぐれたものへの洞察力を意味したが、中世ヨーロッパでは身分的特権の別名であった。近代のリベラルな自由概念は一七世紀の宗教戦争以来成立し、市民革命を経て強化・確立され、宗教的自由から思想・信条の自由が、さらにそこから言論・出版の自由が要請された。この過程で、権力と対立しこれを制約する自由という視点も出てくる。マルクス主義的には、社会全体が解放され、人格の自律が真に達成されることが重要視される。
(2)物事が自分の思うままになるさま。
「三か国語を―にあやつる」「―がきく」「―になる時間」「船の進退―ならねば/近世紀聞(延房)」
(3)わがまま。気まま。
「よろづ―にして、大方、人に従ふといふ事なし/徒然 60」